「好きを仕事に」
ここ数年でよく聞くようになったこの言葉。
好きなことを仕事にできたら楽しいんだろうな…と思う一方で、
「好きなことなんてない」
「自分の好きなことは仕事につながらない」
と感じることもありますよね。
今回インタビューさせていただいたのは、平日は国家公務員、土日は写真家として活動されている高埜志保さん。
Twitterのフォロワーが2万人を超える人気写真家にも関わらず無報酬でしか撮影をしていないそう。
なぜ写真活動を仕事にしないのか…
そこに表現者としての秘密が隠されていました。
高埜 志保
写真家。平日は国家公務員として勤務し、休日に主に人物の写真を撮影。幼少期から約10年間海外で生活した経験がある。幼い頃から小説やイラストなど創作することが好きだった。ストーリー性のある写真がTwitterで話題。
目次
国家公務員という、表現とは真逆の世界
Twitterで拝見しましたが写真も仕事にできるレベルですごいなと…
なぜ国家公務員をされているんでしょうか。
ありがとうございます。
元々写真を仕事にしようとは全く思っていなくて公務員になりたくてなったんです。
日本の英語教育を変えたいという思いから国家公務員を目指しました。
英語教育をですか?
はい。
父親の仕事の都合で学生時代10年ほど海外に住んでいたんですけど…
英語がほとんど話せない時に海外に行ってネイティブな友達と話さないといけない…
それがすごく大変で。
日本の教育って英語を話せるようにはならないなと実感したんですよね。
それで日本の英語教育を変えようと国家公務員に…
でもその課題を解決できる仕事って他にもあるのかなと思ったりしたのですがなぜ公務員だったんですか?
それ就活の時にも聞かれました(笑)
なぜ民間ではなく公務員がいいのかって。
あれ、面接官になってた…
民間だとそのサービスを求める一部の家庭、お金が払える家庭の子供達しかその恩恵を受けられないと思ったんです。
でも国の仕事であれば「学習指導要領」っていう各学校が各教科で教える内容の基準の策定に携わることができるので…
より広く影響を与えることができると思って国家公務員を選びました。
面接みたいにしっかり答えてくださる高埜さん
すごくしっかりした理由があって公務員になられたんですね。
収入面とか安定面からだけでなく…
もちろんそういう部分もありましたけど、やっぱり仕事としてすごく興味のあるものだったんです。
就職された当時、写真は趣味でやられていたんですか?
そうですね。
お遊び程度に友達を撮ってはいました。
でもSNSに写真を載せるとかはしていなくて…
今みたいに依頼もなかったし、写真でお金を稼ぐということは全く考えていませんでした。
そうだったんですね。
そこから今のように作品として写真を撮ろうと思ったきっかけは何かあったんですか?
あまり劇的なきっかけはなくて…
ただ自分が求める表現を実践してみたり、好きな写真家さんに近づけるようにやっていたら今のような形になっていました。
昔から小説を書いたり、イラストを描いたり、曲を作ったりと、いろんな表現活動をされてきたとのことですが、その中でなぜ写真を続けようと思ったんですか?
作詞作曲とか小説、イラストって取り掛かり始めると夢中になりすぎてあっという間に1日が終わってしまうんですよね。
ご飯とかも食べずに作業し続けちゃうタイプで…
でも写真はポートレートだと相手の方がいるので1日拘束とかできないじゃないですか。
2時間とかで終わるんです。
そういう時間を区切って楽しめる趣味って本業と両立しやすいなと思って…
だから写真を続けています。
なるほど…
本業の公務員を一番優先的に考えていらっしゃったんですね。
そうですね…
最初は本当にそういう感じだったと思います。
規定されてる自分と枠にはまらない自分
でも2万人もフォロワーさんがいて、撮影依頼もたくさんくるという状況で公務員を辞めて写真活動だけをやっていきたいとか思ったりしないんですか?
やっぱりそういう願望はちょっと頭に浮かんだりすることもあります…
でもやっぱり国家公務員ってすごくなりたくて目指していたものなので、それを捨てて写真だけで生きていこうとは思えなくて…
すごく迷うところですね。
なるほど…
今まさに岐路に立たされているところなんですか?
そうですね。
岐路に立っているかもしれないです。
国家公務員と写真家ってとても両極端な位置づけ…
表現の世界って今されている仕事のように型が決まったものじゃないと思うんですが、そのあたりはどう思いますか?
あ〜言われてみれば確かに全然違いますね…
写真に関してはうまく撮ろうとか正しく撮ろうとしたことがないんですよね。
だから構図とかカメラのこととか勉強しようと思ったことなくて…
撮りたいように撮ってるんです。
なんというか本業とのバランスが取れているような気がします。
全く逆のことをやっているので。
どっちもあるからちょうどいいみたいな…
仮に今のお仕事を辞めて表現の世界だけでってなったらそのバランスは…?
う〜ん。
もしかしたら崩れちゃうかもしれないですね。
規定されている自分と枠に囚われずに自由に表現する自分って二人存在していて、どっちかが欠けるとバランスを崩してしまうんじゃないかなと思います。
本業にしていないからこそ自由に写真を撮れるんですかね。
それはあると思います。
写真を本業にしてしまうとクライアントさんの希望にそったものを撮らないといけない場面が多いし、自分の撮りたいものと必ずしも一致してるわけではないと思うので…
だから私の中では一番好きなことを仕事にするっていう選択肢はあまりなかったかもしれないですね。
一番好きだからこそ仕事にしない
表現の自由を奪っていたのは自分だったのかもしれない
苦労でいうと最近「映画のワンシーンのような写真」というキャッチフレーズに悩まされたりはしました。
それはどうしてですか?
Twitterに写真を載せ始めた時に自分でそのキャッチフレーズをつけて活動をしていたんですが、ここ最近同じようなフレーズをよく見かけるようになりまして…
それで改めて私はどういう意味合いでこのフレーズを使っているんだろうと思って…
それを自問したら自分の写真を表現する手段としてそういうキャッチーなフレーズを使ってたんだなって思ったんです。
なるほど…
自分の写真がどんな世界観なのかを一言で表したってことですよね。
でもどうしてそれで悩んだんですか?
一言で表すっていうのは、表現する努力を怠っているんじゃないかって思ったんです。
他に言葉を尽くして表現したかったものがあったはずなのにそれらを排除してわかりやすい言葉に頼って表現活動を続けてしまっていたんじゃないかって…
そういうことだったんですね。
先ほどおっしゃっていた枠にハマらない表現活動のはずの写真に規定を作ってしまったみたいな…
そうですね。
そうなってしまうのは嫌だなって思いました。
ただ映画のワンシーンのような写真を撮ることをやめたいわけじゃなくてその言葉を使うのをやめたいなと思いました。
あの世界観がなくなるわけじゃない
Twitterだけではなくnoteでも発信をされているのはもっと言葉で表現する場を増やしたかったからですか?
そうですね。
元々は、自分の考えをオンライン上で発信するのってあまり好きじゃなかったんですが…
「鑑賞者の妨げになってしまうのではと思っていた」
1年ぐらい前に尊敬する写真家の友人と話をしたときに自分の撮りたい写真をうまく言語化できなかったんですよね。
キャッチーな言葉はあったけどそれ以外では言語化できなかったと…
そうです。
でもそれは当然だなって。
写真を載せてあとは鑑賞者の想像力に委ねますよっていうスタンスでやってたので自分の言葉を尽くして伝える努力を怠っていたから…
それに気がついてnoteを始められたんですね。
はい。
もっと写真でも言葉でも表現する努力をし続けていきたいので。
写真やイラスト、動画など…
それ単体でも作品として成り立つものを言葉で表現するかどうか。
キャッチーな言葉一つで表すと自由さがなくなってしまうことも。
しかし言葉を尽くして表現することでより作品に深みを与えることもできる…
難しいところだけれどこれもバランスが大事なのかもしれない。
どうしてこんなに綺麗な作品を作れるのに写真を仕事にしないんだろうと正直疑問に思っていました。
しかし高埜さんのお話を聞いて仕事じゃないからこそ縛られない自由な表現ができるということに気付かされました。
好きなことを極めたいからって別に仕事にする必要はなくて…
仕事があるから好きなことを続けられないって思う必要もなくて…
好きなこととは関係ない仕事をしていても好きなことを続けることや努力することってできるんだなと思いました。